2003年福岡国際マラソン 2003年12月7日 平和台陸上競技場発着

福岡国際マラソンは、大本命・高岡寿成選手が後半に失速。ダークホース(といっては失礼ですが…)・国近友昭選手が2時間7分52秒で優勝し、アテネに向けて大きく前進しました。
レース前半は、なんの波乱もなく推移しました。レース開始時点で8℃という絶好のコンディションに加え、一定の速度でレースを引っぱるペースメーカー(ラビット)の存在。もちろん、これまでも公にされていなかっただけで、ほとんどの場合ペースメーカーは存在していたのですが、はっきりと公表されたことで、いっそうレースがわかりやすくなったのではないでしょうか。彼らは、5km15分を少し切るくらいのスプリットタイムを正確に刻み、ハイペースのレースを演出していました。
もちろん、有力選手はほとんどが先頭集団に入っていました。高岡選手は初めからずっと集団の中ほどに位置し、それほど目立つことなくレースを進めていました(あの長身ゆえ、いつも頭は見えていましたが)。対抗馬と目される、世界陸上代表の尾方剛選手は「高岡マーク」でしょうか、主に高岡選手の後方にいることが多いようでした。諏訪利成選手は、集団の最後方に近いところにじっくりとかまえていました。そして国近選手は…ラビットのすぐうしろにつけて、積極的な走りを見せていました。
ただ、私は国近選手にはそれほど注目していませんでした。これまでのイメージから、どうしても「駅伝の選手」として見てしまっていたからです。トラックでもそこそこは走れるのですが、日本代表として世界陸上や五輪に出場できるほどのレベルではなく、マラソンはというと、上位に顔は出しても日本人トップをとるようなことはありませんでした。だから、今回もある程度まではトップ集団に入っているだろうとは思っても、よもやそのまま最後まで行くとは考えてもみなかったのです。
でも、思い返せばこの積極的な位置どりは、好調さの表れだったのかもしれません。結果を知ってからレースを見返せば、勝ったのも納得できる走り方でした。
そして、レースはあっという間に中間点を過ぎ、後半へと突入。このあたりで、何度か遅れそうになっていた佐藤信之選手がついに力尽き、集団からみるみるうちに離れていきました。それでも、ほかに大きな動きはなく、レースはまた同じように進んでいきました。
ようやく変化が見えてきたのは、30kmの少し前です。それまでずっと集団の中ほどにつけていた高岡選手が、すっと前のほうに上がってきたのです。それにつられるように、尾方選手や小島忠幸選手も前方に集まり、最初から前にいた国近選手と合わせて、ようやく有力選手がほとんど前面に出てきた…という状況が生まれました。ただし諏訪選手だけは、あいかわらず後方待機が続いていましたが…。
そして30km。ここで3人のラビットはお役ご免となり、あとは選手間の戦いが始まる…ことになっていました。しかし、やはりだれも先頭には立ちたがらず、ペースは落ちて集団は横に広がってしまいます。後方から一般参加の野田選手が上がってきてトップに立ったり、ほかには一時小島選手なども前に出たりしましたが、いずれもすぐにうしろに引っ込みました。
それでも、やはりレースは少しずつ動き始めていたのでしょう。まず、これまではほとんど存在感のなかった外国の有力招待選手が前に出てきて、画面に映し出される顔ぶれに変化が生じました。そして、ほどなくエチオピアのヌグセ選手が、明らかにペースを上げたのです。先頭集団は、みるみるうちにぱらけていきました。
34km地点で、集団は前からヌグセ選手、尾方選手、国近選手、小島選手、高岡選手、スペインのペーニャ選手、そして諏訪選手の7人に絞られていました。少しのあいだ、膠着状態が続きました。数kmは、だれかが先頭に立っても長続きせず、また集団の中に戻る…という感じでした。
そして37.5km付近。それまで後方でがまんしていた諏訪選手が、一気に先頭まで上げてきたのです。高岡選手も当然のように諏訪選手に続きます。反対に、ここまで予想以上にがんばっていた小島選手が、ついに遅れ始めました。ここで集団は、諏訪選手、高岡選手、国近選手、尾方選手の4人となったのです。しかし、その状態も長くは続かず、1kmほど行ったところで尾方選手が遅れていきました。
先頭集団には、3人だけが残りました。前を、高岡選手と国近選手が並ぶようにして走り、そのすぐうしろに諏訪選手がつけています。が、その形が長く続くとは思えませんでした。レースはすでに、40km地点を目前にしていたからです。
高岡選手がなんとかして2人を切ろうと、前に出たように見えました。ですが、国近選手は離れません。諏訪選手も少し遅れる場面はありましたが、すぐに追いついて、また3人でのレースが続きます。それでも、テレビを見ている多くの人は、この時点ではまだ、高岡選手が勝つものと思っていたのではないでしょうか。「ここまでくれば、絶対的なスピードに勝る高岡選手が有利」と考えるのは、ある意味当然だったからです。
しかし、この3人の中で最初に遅れていったのは、その高岡選手でした。40.3km地点、それまで前方の位置をキープしていた高岡選手が3番手に下がりました。画面に大きく映し出された表情はかなり苦しそうで、身体の中のエネルギーを、ほとんど使い果たしてしまったかのようでした。そういえば、ここのところ高岡選手は給水をとっていなかったのでは…というのが頭に浮かびました。給水をとらなければ、水分はもちろん糖分(エネルギー)の補給もできません。一瞬、東京国際女子での、高橋尚子選手のことを思い出しました。
それでも高岡選手は、まだ3番手の位置を保っていました。離れそうにはなっても、どうにかして食らいついていきます。もうほとんど、気力だけでレースをしていたのではないでしょうか。しかし、気力でもたせるには、ゴールまでは少し距離がありすぎました。41km付近でついに、高岡選手と前の2人との間に、10mくらいの差がついたのです。その差は、もう埋まることはありませんでした。
そして41.5km、平和台陸上競技場を目の前にして、ついに国近選手と諏訪選手の争いに、終止符が打たれようとしていました。国近選手がスパートしたのです。諏訪選手とのあいだに、少し距離ができました。そのうしろの高岡選手との差は、さらに広がっていきます。国近選手はほどなく競技場のゲートをくぐり、10mほどあとに諏訪選手、もう少し離れて高岡選手…というように順に中に入っていきました。3人の走りからは、競技場内で逆転劇が起こりそうな可能性は、ほとんど感じられませんでした。
最後の直線に入ってもなお、安定したフォームを保っている国近選手を見て、私は、「本当に、もの凄く絶好調だったんだ」と納得させられました。これだけ壮絶な戦いを経ても、乱れはなかったのです。それほど調子が良かったからこそ、試合前のコメントでも、強気なところを見せることができたのでしょう。
国近選手は力強いガッツポーズとともに、ゴールテープを切りました。タイムは2時間7分52秒。その3秒後に諏訪選手がゴールし、さらにそれから4秒後に高岡選手が入りました。
終わってみれば、3人の差は10秒もありませんでした。2時間7分以上も走り抜いてきて、たったの10秒。でもそれは、ものすごく大きな10秒になってしまったのでした。
これで、国近選手はアテネに大きく近づきました。優勝したこと、「本命」と目された高岡選手に勝ったこと、2時間7分台の好タイムであったこと、すべてが国近選手のアテネ行きを後押ししているかに見えます。「実績のない自分が選ばれるには、強い高岡選手に勝つしかない」と思い、それを見事に実行してしまうところは大したものです。
ただ、不安もないわけではありません。国近選手自身が言っているように、過去に目立った実績がないこともそのひとつです。選考会は好成績でも、アテネで今回のような走りができるかといわれれば、どうしても疑問符はついてしまいます。また、東京には油谷選手が参戦する予定で、世界陸上5位という実績とこれまでの安定感から、そこそこのタイムで日本人1位になれば代表入りはかたいものと思われます。さらに、びわ湖には今回は出場を見送った、前日本記録保持者の藤田敦史選手が出る予定になっています。彼らに引っぱられて、好記録でゴールするランナーが続出したら…と考えれば、国近選手が「絶対」だとは言い切れません。
まあ、今ここで3か月先の予想をしていても、しかたないでしょう。残りの二つのレースを見守ることにしたいです。
それにしても、高岡選手の敗因はなんだったのでしょう。マラソン経験の少なさというのも、原因のひとつでしょうか。人数が絞られてきた時点で、もう少しじっくりかまえていれば、競技場までスタミナはもったかもしれません。最強と思われても、そのまま勝てるわけではない…。この前の東京国際女子に続いて、マラソンの難しさを思い知らされた感じです。
最後に、私的にちょっとうれしかったのが、小島選手の善戦です。以前から、マラソンでは終盤で失速するクセがあったのですが、ここのところはそれがひどく、今年の春のびわ湖でもみるみるうちに画面から消えて、結局は棄権してしまっていました。それが今回は、35kmを過ぎても先頭集団につけ、いったんは遅れたものの、なんとかゴールまで大きく崩れることなく持ちこたえてくれました。タイムも自己ベストの2時間8分48秒。「練習ではものすごく強い」らしいのですが、やっとその片鱗を、少しは見せてくれました。

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